昭和41年08月17日 夜の御理解



 今日善導寺の御月次祭で、親先生の説教でこういう様なお話をされたんです。ある熊本の教会の御信者さんの話をして居られました。大工さんだそうです。それが非常に真面目である。仕事も上手である。とにかくまあ本当に、この位修養の出来た人はなかろうという位に人の信用もあって、仕事も上手でやって居られるのに拘らず、仕事の方は赤字ばっかり。ある教会の仕事を偶々請け負う事になって、そしてそこの先生のお話を聞いて、私は真面目にさえやっていけばいいという信念を持って仕事をさせて貰っておる。
 ところが毎年毎年赤字が出る。どういう風にしたら赤字が黒字になるだろうかと言う様な質問をされたと。だからそれはね、御信心をさして頂いて天地の親神様と天地との?がりがないからと。だからあなた金が残らんのよと、そういう意味の事を話されたと。そこで天地に繋がる為には、どういう信心をさせて頂いたら良いかと、そこで例えば貴方がたが使われるところの材木でも、天地の親神様がお育てになった材木を使われるのであるから、材木ひとつでも、天地の親神様の育て頂いた材木を使わせて下さいと。
 又は私共でもです、ただあなたがをしておると言うだけでなくて、神様のおかげで私が生かされて居るんだと、だから今日もお生かしのおかげ頂いて、有難うございますというところに神様とのつながりが出来ると、一事が万事そうなんだと言う様な懇々としてお導きのお話をなさったそうですね。そこに天地とのつながりが出来ると、そこからその人が段々おかげを頂かれたと、そして熊本の大洪水の頃まで、白川が氾濫した頃迄には相当の財産を残しておられた。と
 ころが白川氾濫で、又その頃熱心な信心をされるようになってから、神様だけ庭の梅の木にくくりつけてから、家も一切合切大工道具まで流されたんです。ところがその大工道具それから自転車が少し離れたところに、拾われておったからそれを貰うて、それから又いっちょやり直し立ち直してから、今では大変な請負師になっておられる話だったんですね。成程それでいてすら神様とのがり出来るんですからね。
 これは一般的にお道の信心に入らせて頂いたらです、すべて天地の親神様の御物であると、だからその神様の御物を使わせて頂く、生かさせて頂くといういわば心掛けだけでも、天地とのつながりが出来て、そしておかげ頂くんですからね。私は日頃その話を聞きながらです、椛目の方達はもっともっと、天地へのつながりを頂いて居ると、本当に天地が自由になる様な、おかげ頂かねば嘘なのに、どうして頂けんじゃろかと、私は話を頂き頂き感じたことでございます。
 天地とのつながりというものがです、ですからここんところが、私は本当に善導時の親先生のお話であるところの、そのところも分からなければいけないと、お野菜を育てるでも育てるのじゃない、神様がお育て下さるのである。自分はその御用をさせて頂くだけのことだと、いうことが分かるところにです、もうその神様との天地とのつながりが出来て、信心のある者とない者の違いという、おかげがはっきりしてくると、それにまぁ一つはその方が非常に忠実であった。
 仕事に真面目であったとそういうものがです、そういうおかげ頂ける元になった事は勿論です。ですから椛目でおかげ頂いておる人達が、本当に天地との?がりというものをいよいよ頂かせて頂くところの、これはもう絶対間違いが無いという繋がりのあり方を、それを椛目では色々と説いている訳です。天地との?がり、成行きを大事にしていこうとする、いやその成行きそのものが神様だと、その成行きそのものが神様の働きだと。と、言う事をいよいよ大事にしていくのですから、こんなに有難いことはない。
 昨夜久富繁雄さんがこういう様なお知らせを頂いて居られる。天地の親神様と寝て居るところを頂かれた。天地の親神様、どげなお方じゃろうかと思う。天地の親神様と寝て居るところを頂いたと、こう言われる。ですからこれはもう素晴らしいことだと私思うんです。天地の親神様と一体であるということ。例えていうならば、天地の親神様が大海の水であるならばです、私共はほんのひとしずくの水にも匹敵せんぐらいでありましょうけれども、その一滴の水がです。
 木の葉の下をくぐって谷間に落ちて川に流れて、それが大海に打ち出される。その時は既に一滴の水ではない、もう大海の水なのだということ。私は成行きを大切にするということはその様に素晴らしい事なんです。私共は本当に何の価値もないほどの私なんだと、無力の私なんだけれども、私が神様に任せ切れたときに、天地の親神様といっしょになっておれれるということはです、もう神様に任せきっておるという事なのです。もう一切をお任せしきるということなんです。
 いかにも任せて居る様であってから果して、例えば久富繁雄さんの場合なんかは、天地の親神様と寝る様なおかげを頂けということであろうと、寝て居られるという訳じゃなかろうかと、そういうおかげを頂けということであろうと思う。椛目では、例えば親先生任せと申しますからまあ本当に親先生任せである。椛目では親先生任せであるけれども、果して、なら自分の日常生活全部の上に於て果してどれ程に神様任せであるかということを思うてみなければいけん。
 いよいよ例えば、そういう任せ方が出来るということと同時にです、いわば初歩の初歩としてです、私親先生から頂いたそういう御理解がですね、先ず人間が立派にならなくては駄目て、その大工さんのように。もうこれは本当に自他共にこれだけはもう私は誰にでも恥じないと思うというて、話されたようにです、私は悪いことは致しません、私は正直一途で行きます、仕事は誰にも負けない仕事をしますと人と約束したならきちっと正確に守ります、そして人よりもできるだけ安くという心情でいっているから。
 おかげで仕事は多いんだけれども、病気を致しましたり、ひっかかり事があったり一年を締めくくってみると赤字なのだと、どういう訳でしょうかと。それはあなたは天地のつながりが無いからだとその先生が説かれたと、そこからです、成程材木一本だって天地の親神様が作って下さったもんだと、このノミだってカンナだっていや自分のこの腕だって神様のお作りになったものをこうやって使わさせて頂いているだけなんだと、自分の金だと思っておったけれど。
 自分の金じゃない、使わさせて頂くのだと言う様な事が分かっただけでもです、その方の生き方、有り方が立派であればそれでおかげになってきておる。だからいうならば、ここが初歩のところ、金光様の御信心は先ず何というても、信心のある者と無い者の違いははっきりと、人間の目で先ず頂かなならないということ。本当に目が覚めたならば、神様貴方のおかげで目が覚めましたという実感、お野菜一本作らせて頂くでも神様のおかげ無しでは頂けることではない。
 神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだという思い込みを作るということが天地とのつながりを造る第一歩だと思う。これは初歩、これは何処の教会でも説いて居る訳なんです。ですから信心がまともにさえなって行けばです、まともにさえなって行けばおかげを受けられる訳なんです。三代金光様にある先生が、お取次をさせて頂く、その人が助かるというコツというのを教えて下さいと言う様なお意味の事を申し上げたときに三代金光様が仰ったそうです。このお道には秘伝もコツもありません、と仰った。
 教祖の神様が教えておられる、御教えを守る以外にございませんと仰った。教祖の神様の御教えを守らせて頂くということがです、それは守らせて頂けばどういう事になるかというと、自然は大事にしなければ居られなくなって来るのです。もう神様に任せ委ねきる他無いのです。そこに天地とのつながりというものがいよいよ密接になってくるのです。椛目では、だからもっともっと深いところに私は皆さんにお話聞いて貰っているんだと、私の様なもんなんだけれども。
 それが大海に打ち出した時には、もう大海の水と同じなんだと。いわば、天地の親神様ともう同じなのだと。もう親と子なんだと、親のもんは子のもん、子のものは親のもんと言う様に、もう自由無げのいうなら、天地の恵というものを、受ける事が出来るのだと。天地の親神様が油の性なら、私共も油の性にならなければいけない。天地の親神様が水の性なら、私共も水の性にならなければ、これを離れたら、おかげは受けられんというのです。これは大変難しい。
 難しいと言えば、深い深い意味合に於て説いて居るんですけれども、その深いところが分かったところでです、今日の熊本の大工さんじゃないですけれども、そういう人物の上にもです、先ずおかげを頂かなければ天地とのつながりと言った様なことは頂けない。久富繁雄さんに、例えば神様が本当に求めておられること、お前は椛目でほんとに親先生任せになっておる通りにです、いうならば自分の日常生活の上に於ても親先生任せになっておるよう、これは私がです。
 私が天地の親神様と一体であると、いうならばもう私が天地の親神様と同じ事だという意味になるでしょうが。もし私に天地を自由にする力があるならば、もしあるとするならばです、もう天地の親神様の働きを頂いているという事と同じでしょうが。ですから、神様任せという事は金光大神任せで親先生任せであるという事になってくるのです。ですから、私共の日常生活の上に於てもです、そういう委ね任せれれる信心を本気でさせて貰う。椛目では例えばそういう。
 いうならば広いというか深い意味合に於て、いつも頂いて居る。だから皆んなが高尚になって分かっておってもです、なら熊本の大工さんのそれが先ず出来なければです、仕事は下手、よそよりも高いと例えばそういう様な生き方、人間は忠実ではないとならもう、それだけでも天地の親神様とのつながりが出来て居ってもです、そういう神きり虫がです、天地の親神様との間を切断して仕舞う訳なんですよ。確かに神様とのつながりが出来よる、それを自分の我情我欲で切ってしまいよる。
 神切り虫が神の信心を、私共の幕を切って仕舞う訳なんです。本当に私は、今日親先生の御理解頂かせて貰ってです、ほんとに椛目では、もっとその奥の奥を頂きよるけれど、頂いたところで何にもならん。親先生が今日説かれた様なところをです、先ず自分のものにさせて頂いて、神様貴方のおかげでという事を、先ず分からせて頂くと同時に、その大工さんじゃないけれども、自分で自分は忠実にやっていきよる、誰よりも真面目だと、誰よりも辛抱強い。
 仕事は人よりも立派にさせて貰える、そして値段は人よりも安くする、勉強もするとそういう態度がですね、先ず出来なければならない。それから先に天地の親神様とのつながりを様々な意味合に於てです、作って行かなければならない。そういう私はおかげを頂いて行く人を天地のいわば大徳というものが一つの身の上にも家の上にも頂けてくるようになると思う。椛目で折角いうなら。
 真似かたの見本のようなおかげを頂いて居る人はいくらもある。本当に自分のため天地が自由になって下さるようなおかげ下さるんだと言う様なおかげを御取次を頂いて御願いをなさっておかげを受けておられる。ところがそういう様なおかげはですね、もう本当の惜しいことに自分の心のいわば不精進というか、我情我欲がですね、ハサミで切るように神様との仲を断ち切って仕舞うておると言った様な事はないだろうか。
 金光様の御信心は、もうここに尽きると思うですね。まず何というても、神様のおかげを頂かなければ、出来ることではないと、と言う様なところで同時に先ず、私共が改まらせて頂く、いわゆる真の人間に、先ずならせて頂かなければ真の道は踏まれない。真の道ばかりを椛目では、こういう道がありますよと、教えておる様なもんですけれども、先ず真の人にならなければならない。真の人にならせて頂く為の精進が、椛目では欠けておる様な気がする。
   どうぞ。